寂しくなる

ふと、存在を思い出して寂しくなる方が何人かおります。

あるとき、元理科大の理事長をされていた中根さんが亡くなられた事を、インターネットで知って何とも言えない気持ちになりました。私は数年前にある事を思案していたときに、検索に出てきたのが中根滋さんの動画でした。そこでの話は、とても分かる話で、こういう人が上にいたら、これからの人たちは幸せじゃないかと思いました。今より忙しくなかったときは、新富町での中西進先生の万葉集の講義に参加しておりました。きっかけは、先生の部下だったとある大学の学部長でした。その学校では、お気に入りの学部長や、小田晋先生や、松岡正剛先生と面白い教授陣がいらっしゃる時代でした。それぞれにも、本などでは出てこない面白いエピソードがあって、どこかで紹介したいとも思っています。ここでの話は、私が聞いた話によると、中西先生が理事長をされたとき、良くなる改革をしたので、大変苦労されたという事でした。ここでもう一人の元大企業にいらっしゃった事業家の話ですが、私が若かったころに「みんな良くなりたくないのかな!」と怒ったときに、その方は「誰も良くなんかなりたくないよ!良くなるってことは利権が無くなるってことなんだよ。我慢して手に入れた椅子が無くなるってことが良くなるってことなんだよ。誰も良くなんかなりたくないよ」と教えてくれました。これは、後から良く分かった事でした。ですから、良くなることは隠れてやるようになりました。バカなように、わからないように、良い事をしていこうと。ヴィクトールフランクルの”それでも人生にイエスという”では、世界に賢者は三人いて、その三人がいるから世界は回っているという逸話があったと思います。そして、その賢者は見つかってしまうとたちまちみんなが殺してしまうというものでした。これも示唆に富む面白い話です。中根先生を知ったとき、先生も良くする事をされている人ではないかと感じました。そして、それから、ふとした時に理科大生の経営学部の女子生徒と話すことがありました。その生徒はいう事がとても面白いので、中根さんの話題を出すと、目の色が変わって「私は中根さんの話を聴いて、理科大に決めたのです」と言って、涙ぐみました。その時は中根さんが辞められて、好きな教授も退官されて、と色々な事を語ってくれました。私は今もその生徒にいつか会いたいと思うのですが、それは、色々な外的な要因で、自分の思い描いていた環境とは違う状況になっても、それのせいにはしないで、積極的に自分の出来る事をやるという事を語っていたからです。20歳前後の方です。ハッキリ言って、私は20歳前後のときなんていうのは、全部外的要因のせいにして、ごまかしていたものです。それから立て続けに、中根先生の事を知っている熱い気持ちを持つ生徒の声を聴いたのもあって、あるときにふと、中根さんに、こういう生徒がおりましたとメールをしてしまったのです。理由はわかりませんが、どう思われてもいいから、その事は伝えなければいけない気持ちになったのです。すると、先生からお返事がきました。残念ながら、その経営の学生を見つける事は出来なかったのですが、私と3人の面白い友人と一緒に、ご食事をさせて頂きました。そこの話もとても面白かったです。メールでも一言、つけくわて大事な事を教えてくれましたし、コロナ後も電話を頂いて収まったらまた食事をしましょうと、声をかけてくれました。その時の会食のメンバーはみんな、好転したので、その事も伝えました。また、「食事誘ってもらったよ」と報告すると、みんなも喜んでいました。また会う日までに、自分はもうちょっとはマシになっていたいと思いました。一回の会食では全然聴き足りなかったです。中根さんと触れ合った生徒もそういう人が多いのでは無いでしょうか。こういう時代というのもあるのかもしれませんが、お別れの挨拶が出来ない場合がございます。そして、思ったのは、自分なりのお別れの挨拶は、親切を受けた側に重要だと思いました。こちらの気が済まないわけです。山田先生という方にも、熱中して化学の質問に行っていると、暖かい声をかけてくださいました。その先生も多くの生徒に慕われていたのですが、急に亡くなられて、良くして頂いた側の生徒は、何もぶつけることが出来ずに、その情報が入ってきただけです。次の方に、親切をしてくれた方達の存在を感じて、出来る事をしていくのですが、ご本人にも思いをぶつけたくなるものです。

故人と結びつける伝統的な行事は、ありがたい事だったのだと思います。また、そのご家族に受け入れていただいて、とても嬉しかった経験もございます。また、その事がこちらの力になっています。

本当は、こういう事を言ってくれました、こういう事をしてくれました、と奥様やご子息ご令嬢に、伝えたい人は沢山いらっしゃると思います。私もその沢山の中の一人です。