ISKについて

理科と数学の好きな方が、居られる場所を作っていきたいと思っています。トレーニングジムがあるように、理科や数学のトレーニングジムがあったらいいなと思っていました。物理学者や、数学者が、そこにいてくれると、安心感を得られます。安心感があると、勝手に出来るようになってしまいます。例えば、キュリー夫妻と触れ合った近所の子どもたちは、何人も優秀な科学者になったそうです。

ヘアケア、スキンケアの方法は確立しています。新しく教えられることは何もありません。出来る範囲で、良くない事を減らしていくだけです。養老孟司さんは「高脂血症、高血圧、糖尿病、云々の半分以上は食べすぎの運動不足を言い換えたものです」と何処かで、言っていたような気がします。理科大で数学科在籍だった頃、多田富雄先生が生命科学研究所の所長をされていました。免疫の意味論を中学生の時に読んだ時は、これは文学の本を読まされたと失望をしたのを覚えています。あの頃はわかりませんでしたが、素晴らしい内容です。

北里柴三郎により、感染症への対応が尤もになりました。彼の発見前は、どういう治療をなされていたか調べると、驚くと思います。医療従事者はご存じなので、その話題になると、お笑いになるのですが、当時の医療は、無茶苦茶な事をやっています。知識がない、見えないだけで、歯止めの利かない、厄介な事が出てくる事があります。昔の医師は西洋でも日本でも、肉体に近い仕事だからか、地位は低かったようです。北里先生の発見により、胡散臭い治療法が一網打尽になりました。医療が科学的になり、信用を高め、医療従事者の誠実さが社会的地位を高めていきました。次に、多田富雄は、昔は部分の病気がメインだったが、今は関係の病気がメインになったとおっしゃった。ああすればこうなるでは対応できない、それの延長をやっても、むしろ悪くなるという事が全てに現れてきた時代だったと思います。ですから、何かをして、そのとき良くない結果だったとしても、そうでは無いかも知れませんし、そのときに良い結果が出たとしても、基本を見直すことを無視すれば、むしろ悪化します。自分の人生に自分で責任を持とうと思えるようになるには、愛情と栄養が必要だと思います。それが無ければ、自分をダメにするものを歓迎し、自分を良くするものを遠ざけてしまいます。

パーマ、カラーを優しくすることは簡単で、犠牲を最小限にして目的を達成させれば良いだけです。髪の毛、肌を綺麗にするのも簡単で、出来るだけ悪くしている習慣をやめていけばいいだけです。養老さんは、死体解剖を行ってきて、それをやってきても、美しいものが出来上がるとか、生産的な事とは無縁だと言います。相手は変わらないけれど、自分の考えが変わっていくのがわかるとおっしゃっていました。おこがましいですが、それを聞いたとき救われた気がしました。相手にされていない事で、自分の好きだった方達の気持ちが分かってきているのでは無いかと愉しくなったのです。人によってお勤めは異なります。私にはこれが社会と繋がる手段だったのです。業界がどう思われているかは自覚をしております。そして、お客様もその自覚をしております。これは最初誤解して悲しむ方がいらっしゃいますが、全く悲しいことではありません。悲しいことは、気がつかないで、そのままである事です。すぐに顔が明るくなって笑い出します。自覚をすると、自分はどうしたいかが分かります。責任を自分に取り戻せて嬉しくなってしまうのです。こう言う方もいます。理由が分からずに、嬉しくなっているのです。それは無意識が分かっているからです。「自分の責任を、自分に取り戻した喜びなのですよ」と話すと、納得してくれます。これは本当にワンパターンです。河合隼雄さんが「正しい事を言ってもまず効果はありません」と仰っていて、「正しい事を言ってはいけないとは言ってはいません。いませんけどね、まず効果はありません。」と言っているのですね。嫌ほど経験しました。みんなそうなのですけどね。そこで「希望を失わないで、関わり続ける」と言う事が大事だと仰っていて、色々あっても、絶対に良くなってくれる、自分で良くなる方向に向かってくれると、希望を持ち続けました。不思議にこれしか良くなる方法は無いのだと実感しています。河合さんは「本人もそれが良くないとは分かっています。だけど、今まで生きてきて、何か理由があってやめられないのです。」と仰っています。今は凄くそれが良く分かるのです。誰にでもそういう事ってありますよね。その気持ちを、いかに理解してあげられて、なるべくいじくり回さないでいる事が大事かなと思います。それでも、我慢できなくて、気持ちを打ち明けてしまうことはあります。もう、そういうときは、笑ってくれます。

多田富雄先生の「教えられたこと,伝えたいこと」を検索すると、PDFがすぐ見つかると思います。とても面白いです。途中もそうなのですが、最後の最後も、思わされることがあります。