
昔、LUSというブランドを、論理の人にも、感性の人にも、使ってもらいたいと思って作りました。本当はL∩S、L×S、なのですが、入り口を大きくしたいという事で、LUSにしました。また、マークはベン図の部分集合部分になりました。デザイナーに、数学とかエッシャーとか、自然界にある定数を紹介したら、ベン図を少しずらして、作ってくれたのです。それは、湧き出しか、吸い込みか、区別つかないもので気に入りました。製品を右回りの順に使う仕様にしたので、ストークスの定理を入れて、紙の奥に向かっていく、未来に向かっていく意味をいれました。電磁気学のテストには絶対出るので、覚えていました。商標取るとき、特許庁のおじさんに、この話をしたら、なるほどなるほど!とテンションが上がってくれて、嬉しかったです。
ルーブルにある、マルシュアスの皮剥ぎ The Flaying of Marsyas という作品の彫刻で、マルシュアスが神に戦いを挑んだが、アポロンの策略により敗北し、皮を剝がれる前の場面になっている。本来は、下に包丁を研いでいる召使がおったようです。このマルシュアスの皮剥ぎには、「本能の側は負ける」という副題が与えられている。
美容の業界で、スキンケアも、ストレートパーマもうまく行ってないのは、本能ばかりでやっているからです。実際に、綺麗な皮を失ってしまう場合があるのです。感覚だけでで選択しているうちは、負けます。感覚を裏切るという事は、一体感を否定することですから、ネガティブな感情が現れます。ヌルヌル、ツルツル、しっとり、をやめさせると、怒り出します。見てください、美容に興味がない人のほうが、髪も肌も綺麗です。美容を大事にしていながら、綺麗な人は、感覚ではなくて、生物として、もっともなことをしているだけです。ただ美しさを求める人は、みんな醜くなる。美容整形には存在意義は絶対にあると思っています。事故や、何らかの要因で、必要な方はいます。その技術の保存、発展のために、美容整形する方たちがいるという事は、意味があることだと思っています。ただ、見た目の美しさばかり熱心な国は、精神的な成熟が遅れているのではないかと思う。それを表すように、幸福度が低いという話もある。こちらは、そりゃそうだろとも思うわけです。自分のどうしようもないところを、受け入れていく力と、精神的な健全力は、無関係ではないと思うからです。ですから、整形が悪いとか良いとかという話ではないのです。もっと言えば、そういう事を少しはわかっておいて、やったりやらなかったりすればいいじゃないかと、思うわけですね。
養老さんは、医学部を出て、解剖をやって、先輩に「スルメを見て、イカが分かるのか」と言われたらしい。それに言い返せるようになったのは40を過ぎてからだと言っている。「俺はスルメ作りの職人だ」と。美容の仕事に縁があって、仕事は選べずに、やりたい方法を選んでやった。現場には大層受け入れが悪かったが、不幸という感情は、無かった気がします。美容の分野に対する、批判は一通り受けてきたと思う。ちゃんとした仕事をした人たちからの批判である。お前らの業界はコンセプト商法だろって、見抜かれまくっているのである。だから、こっちは考えますよね。どうやったら、世の中の役に立つ事ができるようになるんだろうと。立派になった同級生などの顔がチラチラと浮かぶわけですね。あいつは、世界規模での量産の仕事をしている。あいつは、数百億のライン四本を任されている。あいつはミスで生涯年収を吹き飛ばしたと自慢している。しかし、胡散臭い目でみてきた方たちも、不思議にそうでなくなってきた。理系で、立派な仕事だと言ってくれる人も出てきた。私は、胡散臭い目で見てきた方たちの事を、それは当然だと思ってきた。また、それがモチベーションの種のようなものになっていったのだと思います。
随分前の話だが、地元の王家という中華料理屋に行ったとき、雑誌を見ていた。あまり好きではない作家が連載していて、読者の相談に乗っているコーナーだったらしい。そこで相談者が、文芸系の仕事をしたくて、出版社を受けていったのだが、エロ本の出版社にしか受からなかったらしい。しかし、本の仕事をやっていれば、やりたい文芸の、本の仕事もできるのではないかと、続けているが、こんな仕事をして、意味があるのか、といったような内容でした。それに対して、「毎月、それを楽しみにしている読者がいるのだ、それは立派な仕事だ」といった返事がされていたのです。相談者の気持ちが凄くよくわかるし、それに対して気の利いた返事が出来るのかと思ったら、それだけだった。父にそれを話すと「そうじゃ、毎月それを楽しみにしている人がいるんだから」と言った。自分がエロ本の記事の担当をしていたらどうするんだろうと、考えました。仕事の中で、出来るだけやりたいように、やっていくしかないと思いました。
肌とか髪とかを、綺麗にして意味があるのか、ずっと頭の片隅にあるわけで、橋本治の『人はなぜ「美しい」がわかるのか』を読んだりとか、郡司ペギオ幸夫の本を読んだりして、探そうとはしたんですね。しかし、結局は、仕事の原点に戻るしかなかったんですね。色々なところで出てくる、カントの形而上哲学の、「人間は目的そのもので、手段として扱ってはならない」と、先輩などから聞かされていた「仕事は社会とつながる手段」という事です。そして、こういう大事なことは、仕事の仲間とは、声を掛け合う事が大事なんだと思って、そうしてきたのです。ビジネスを教えてくれた方は、曽良中清司先生から習った方で、権威主義的人間という本を紹介してくれました。夜と霧とかは、読んでいたのですが、このような本は初めてでした。しかし、親しみのあったエーリッヒフロムらが深く掘り下げた領域のものだそうです。(また、フロムも「仕事は自己実現であり、他者との関係性の中で意味を持つ」と言っております。)その中で当時印象にあったのは、目的と手段が入れ替わってしまうというアホみたいな事が、良く起こってしまうという事でした。だから、大事なことは、仲間同士で言い合わなければいけないと感じたのです。また、それをついてきてくれた方たちには、伝えないといけないと思ったのです。仕事やっていると、ついつい目的と手段が入れ替わる事もしょうがないと思うけど、みんなで声を掛け合っていけば大丈夫だと思ったのです。
ミヒャエル・エンデが言うには、ドイツでは伝統的に、original sin(オリジナル・シン)を、特殊、特別は精神的堕落だという解釈があるそうです。普遍性を取り戻すことが、精神的向上なのだと。先ほどの皮剥ぎの話と同じですね。特殊特別なんて、簡単です。誰でもできます。普遍性、一般性というのはとても難しい。特殊特別は落下、重力に逆らって立つ事は生命、普遍性、と解釈されていたらしい。重力に逆らって立つというのは、めちゃくちゃ難しい事です。それはロボットを作ってみれば誰でもわかることです。重力を振り切り宇宙に出るという事は、普遍性を取り戻すという作業なのかも知れません。イーロンマスクは、宇宙の事を知りたいという事が根本にあり、良い問いを求めて、火星に行くという。それを聴いたときには、強い共感をしました。そうなのです。問いが大事なんですね。良い問いが出れば、前に進むんですね。AIでも良い問いをすれば、結構答えてくれて、次に行けることが事が多いんですね。
美容業界では、ケラチンを塗ったら、髪の毛が良くなるとか、良くわからない事が多いのですが、そういう、特殊特別な事を、減らしていって、普遍性を取り戻す作業というのをやっていくと、付き合ってくれた方たちには、色々な事が起こるし、こちらも以前よりは、マシな問いが出てきた気がするのですね。これはひょっとしたら、前に進んでいる、人類の飛躍に繋がっているのではないかと、救いのようなものを感じるようになったのです。任天堂の社員さんの話を聞いたときに、みんないい人なんですね。口をそろえて「アミューズメントの会社ですから」って。それは、色々やって、ゲームの会社になって、批判とか、色々ありながら、今は文化にまでなったわけですね。そうなる前というのは、色々な攻撃と同時に、自分は何をやっているのか、これは意味があるのかとか、色々考えたのではないかと思うんですね。ゲームの会社だから、問いが沢山あったと思うんです。そこで、出てきた回答が、社員教育になっていると思うんです。当時は、意味を感じていたかどうかわかりませんが、ファミコンをやっていたから、PCをサクサクやれる人が、多かったのだと思います。
くせ毛を伸ばして何になる?別にくせ毛を受けいれればいいじゃないか。こういう問いを受け入れてくれたお客様たちには、とても感謝をしています。お客様たちは、私の事を信じてくれたから怒らなかったと思うのですね。綺麗ごとではなくて、出てきた問いには、誠実に答えようとはしたいのですね。スルメの話みたいに、20年ぐらい、わからないで仕事してもいいと思うのです。
長持ちするストレートパーマなんて簡単です。適当にやるんじゃなくて、半導体の歩留まりを上げるように、出来るだけ洗浄をして、反応を仕掛けるだけです。そこには、夢もロマンもありません。残酷なほど忠実にやれば、やるほどうまく行きます。そんなの当たり前すぎます。○○が入っているからいいんですという、コンセプト商法が使えません。なんでいいの?と言われても「変な事をしないで、ちゃんと反応させたから」しか言えません。だから、やりたがる人はいません。「なんて言えばいいの?」と二言目には言われます。別に、ちゃんとやればええだけやんって思うんですけど、それが嫌なんです。特殊特別は楽だからです。普遍性、一般性というのは、残酷なほどきついのです。でも、やってしまえば、バカのループは終わります。ずっと綺麗でいられます。普遍性を取り戻すという作業です。感性と論理を外積すれば、新しい次元が生まれるのです。これも、ワンパターンです。レオナルドダヴィンチがやったのはそれです。ヴィダルサスーンがやったのもそれです。ルノワールもそうです。そのたびに、新しい次元が生まれています。
長持ちするストレートパーマの仕事を終わらせたら、また問いが生まれます。それが、人類の飛躍とつながっているかもしれません。そんな気がしているのです。 自分のやっている事で、疑問に思う事があったら、それは周りが許してくれないとしても、抑圧しなければ、それが導いてくれると思います。それが、読んだり、会いに行ったり、絶縁されたり、といった事を起こしていくのです。問いを持つと、怒り出す人は確かにいます。問いは、秩序にとって都合が悪い、隠された恥部をあぶり出す、服従ではなく自立の意思が宿る、問いはコンセプト商法の天敵、多くの人は問いにさらされる訓練を受けていない。疑問に思ったことを素直に話すと「ひねくれている!」「素直じゃない!」って言われて、ごますりが上手な子は、大人からは「素直な子」と言われていました。しかしです。大人でも、これはおかしいんじゃないか!っていう事を言うと、すごくかわいがってくれた方もいらっしゃったのです。私はそういう大人になりたいと思いました。「問い」とは、既存の構造を“再構成せよ”という宣戦布告であり、多くの人は、それを“壊しに来た”と感じてしまう。しかし、大事にしてくれる人も何故かいるのです。
マーケティングをやって思うのは、破壊だと思いました。時間軸は、まず破壊で、再生なんですね。どうにかならんかと思うのですが、壊していくんです。壊されたくない人は逃げていきます。勉強をすると、脳はどうなるかというと、まず脳神経は死ぬそうです。そして、新しいネットワークを作るというのです。多分、イプシロンデルタ論法をやった人は、脳神経は死ぬんですね。新しく配線したとき、わかるんだと思うんです。昔、解析を教えていた先生は、若いころに七転八倒して、のたうち回ったと言います。新しいことを知る、今までの常識だと思っていたものをゴミだと認めるという事は、そういう七転八倒する苦しみなのです。おそらくは、多くの人は、そういう機会があって、選択するときがあると思います。そして、私はどちらでもいいと思っています。やらない人は、蹴り飛ばしてもやりません。銃で脅したらやるかも知れませんが。また、泣いて止めても、やってしまう人はやってしまいます。