「私がいなければ、場は平和になる」と思ってしまうあなたへ

──その論理は正しい。でも、出口にはならない。


■ はじめに:その思考、静かだけど深い叫び

若い頃、私はよく粗末に扱われたり、疑いの目で見られたりしました。
「それも当然」と、どこかで思っていた自分もいます。

でも、同時に私を深く可愛がってくれた人もいました。

アダルトチルドレン(AC)に詳しい方はこう言います:

「“自分がいなければ皆が快適に過ごせる”という無意識の構造が、
周囲に“この人は雑に扱っていいのかも”という印象を与えてしまうことがある」と。

それはまさに、私が若い頃に感じていた現象そのものでした。
でも今は、少し違います。
気づかないうちに、自分の中に自信が育ち始め、
周囲の反応も、自然と変化してきたのです。


■ ロジックとしては、たしかに正しい

この思考の流れは、論理的には筋が通っています。

  • 「私がいる → 相手が不快になる」
  • 「私がいなければ → 相手は不快にならない」
  • よって、「私がいなければ → 全体は安定する」

まるで数式のような美しさすらあるこの論理。

でも──この論理は、「正しすぎて、誰も救わない構造」でもあるのです。


■ なぜこの考え方は、危ういのか?

① 不快のすべてを「自分の存在」のせいにしてしまう

実際には、相手の中の感情・過去・価値観の問題もあるはず。
それでも「全部自分が悪い」と背負ってしまう構造がある。

② 関係の“構造”が未解決のまま残る

自分がいなくなったことで場が静まっても、
その関係の根にあった問題は、誰の中にも処理されず残っていく。

③ 誰も育たない

場も、相手も、自分自身も、変化せずに“静止”する。
それは一見、平和。でも、本当の意味では「止まっている」。


■ この思考を持つ人は、決して少なくない

繊細で、賢く、優しすぎる人ほど、この考えに陥りやすい。

タイプ傾向
✔️ 真面目・論理的空気を壊さないために、自己退場を選びがち
✔️ 怒られ慣れしている人「怒られた=私が悪い」と結論づけやすい
✔️ 家庭で“いい子”だった人「私が我慢すれば場は平和」と学習してきた
✔️ AC傾向他人の感情を優先し、自分を後回しにする

■ 正しすぎる論理がもたらす“静かな副作用”

表面の効果深部のリスク
✔️ 場が静まる✖️ 「私はいてはいけない存在」だと記憶される
✔️ 衝突を避けられる✖️ 対話の芽が摘まれる
✔️ 納得はできる✖️ 孤立感と疲労が蓄積していく

■ だからこそ、問いを変えてみる

問いの向きを少し変えるだけで、出口が見えてくることがあります。

  • 「相手が不快なのは、私の存在そのものではなく、
     まだ言葉になっていない“構造”や“誤解”があるのでは?」
  • 「私は消えることで平和をつくるのではなく、
     “共に存在しながら関係を再定義する”ことができるのでは?」

■ おわりに:問いに気づいたあなたが、変化の鍵

もしあなたが今、「いない方がいい」と思っていたとしても──

そのことに気づき、「これは何だろう」と問いを立てている時点で、
あなたはもう、違う場所に立ち始めています。

それは、「正しすぎる論理」から一歩出るための、
とても大切な構造的移動なのです。


最後に

かつての私を、可愛がってくれた人がいたのはなぜか。
それは、“粗末にしてくる人”ではなく、
“透明度や純度に共鳴した人”だったのかもしれません。

同じように、あなたのことを見てくれている人も、
必ず、どこかにいるはずです。