子どもの頃、テレビで『ワンダービートスクランブル』というアニメを観ていました。
小型の乗り物で人体内部に入り、血管や臓器を探索していく内容で、ただ夢中でした。
けれど、いつからか──登場する赤血球や臓器の「かたち」に、奇妙な迫り方を感じ始めました。
それはグロテスクというものではなく、構造そのものがこちらに向かってくるような感覚。
言葉にならない知覚が、胸の奥に刺さっていたのです。
向き合うことが難しくなり、私は部屋の隅の椅子の上に積まれていた衣類や雑誌を盾にして、
その隙間越しにテレビを覗きながら観るようになっていました。
遮るものを挟まなければ、受け止めきれない何かがそこにあったのです。
後にこの作品が、手塚治虫によるものだと知りました。なるほど、と思いました。
──もう一つ、似たような記憶があります。
小学校に入る前、親が贈ってくれた『アカデミア』という子ども向け百科事典。
写真と図解で、人体、宇宙、自然が整理された本でした。
特に、脳の写真が印象に残っています。
赤く着色された血管、心臓や筋肉の断面、惑星や昆虫たちの姿。
それらを見ているときだけは、私も静かになっていました。
けれど、ある時期を境に、あの本の写真が怖くなった。
脳の断面、心臓の構造、宇宙のスケール──
それらが情報ではなく、“反応する存在”のように変わって見え始めたのです。
ページを開くと、反射的に心が揺れる。
「これは、見ると襲ってくるものだ」という直感のようなものが働きました。
理由は分からない。でも、確かに何かが働いていたのです。
──それからさらに年月が過ぎ、
北里大学に通っていた友人から、「人間の臓器のプレパラート」をもらいました。
染色された組織片がスライドガラスに封入されていて、
視覚的にはとても静かで、生々しさがなく、むしろ綺麗でした。
“こんなに綺麗にしてしまっていいのか?”
そう思いながらも、それを手にしたとき、何か大切なものを渡されたような気がしました。
なぜそう思ったのかは、うまく言えません。
でも、見なかったことにするのは、いけないような気がしたのです。
その臓器は、どこかの「誰か」だった。名前も年齢も知らないけれど、
私は心の中で、勝手に苗字をつけて呼ぶようになりました。
『ワンダービートスクランブル』も、『アカデミア』も、そしてプレパラートも、
触れていたのは、ひとつの“構造”だった気がしています。
構造は、ただ見るものではない。
ある瞬間から、こちらの内部にまで及んでくる。
静かに、あるいは抵抗なく。
構造の方から、私たちを見返してくる。
あのプレパラートの断片に、いまも私は「誰かの痕跡」を思う。
その感覚が、まだ失われていないうちは──大丈夫な気がするのです。
そうしたものを、過剰に嫌悪する人を、かつて冷たく感じたことがありました。でも、今になって思えば、それは──かつての私と同じ反応だったのかもしれません。
だからこそ、こうしたものに子どものうちから触れておくことは、大切なのではないかと思います。自然や構造に一度も触れず、制度の中だけで大人になってしまったとしたら。そのことに、今、どこか“取り返しのつかなさ”のようなものを感じています。