失礼だと叱られる理不尽

「化粧もしないで」「メイクしないのは失礼」という風潮が日本ではまだあるそうです.アレルギーなどで,化粧が出来ない,化粧が辛い方も,私の身の回りにもいらっしゃいます.

思考停止で符号化して,「メイクしてない」=「人間的にひどい人」
だけではなくて,「○○だから」=「××である」とだけで判断する方がやっぱりいます.否,人間は少なくともそういう性質があると知っておいた方がいいかも知れません.映画の雨のシーンは,悲しみ,と言うように,記号化を発明したのは黒沢監督だと教わったことがあります.エンターテイメントならそれでいいですが,現実でそれを全部やったら大変です.

「何か」をやらないと失礼だとか,常識ではないとか,言うのは,何かの消費を促すためのものかも知れません.うまく行っている美容室のお客様が私に言いましたが「自信があって自分を持っている女性は髪の毛を染めない」と言いました.みんながやっているからとか,自分だけやっていないとか,消費を煽る情報には左右されないそうです.そういう女性がモテ無いか,ダサいかというと,そうではなくて,チャラチャラした男が近寄りがたいだけで,モテていますし,高嶺の花になっております.意識のハッキリした男性とお付き合いします.もてるもてないは,髪の色とか,肌の色とか,シミそばかすとか,そういうのは実際は関係ないです.出来るだけの事をやったらあとは個性です.それを受け入れられないと言ってくる人は,人間そのものではなくて,条件を求める人です.その人にとってはとても辛いことを不敬だと一方的に攻撃するのは,何か別の目的があるのだと思います.絶対に刃向かえないポジションを取って,傷つけたいとか,陥れたいとか,いう虐める事が目的なのかも知れません.

フォーマルな場に,髪の毛や,眉毛が整っていて,鼻毛が出ていなければ,いいのではないかと思います.

子どもが勉強しなくて怒るのは意味が無くて,自分が勉強すればいいわけですし,他人がメイクしなくて怒るのは意味が無くて,その人の分自分の顔に塗りたくればいいわけです.

ヨーロッパでは,航空会社での化粧の義務づけ規則が廃止されてきているようです.靴はもっと早くから,自由度が上がっていたと思います.纏足の強要みたいなものですよね.今のファッションでいうと,サスーン,やシャネル,がベースになっているところがあります.その方達が認知される前は,女性の自由を奪う,縛り付けるようなものだけでした.一週間もたないヘアスタイル,コルセットでガチガチに束縛するファッションから,サスーンとシャネルが明確に解放したのでした.当時の崇高なインテリよりずっと有益を解き放ったと感じます(本当はリンクしていると思います.受け入れられる素養が育ったときに,サスーンのカット,シャネルのファッションが受け入れられたからです.ガロアの群論も当時の天才にもさっぱり偉大さが理解出来ず,受け入れられるまで死後100年かかったのです.).

実は,世界が繋がってくると,そのような理不尽が消滅していきます.「メイクしていないから失礼」と攻撃出来なくなります.世界的に見れば,メイクをして,痒くなる,水泡が出来る,荒れてしまう,体調が悪くなる人に,失礼だと言って,ストレスを与えたり強要する方が奇異の目で見られます.おそらく本人もそれは分かっていて,狭い空間,狭い組織で,外部からの目が遮断されているところで,いじめを行っているわけです.

海外の記事はまともな事を描いていました.メイクもヒール靴も,したいときに,出来るのが良いと.してもしなくても良くて,楽しみのためにやれるが良いと思います.美容の職場だから,髪の毛は黒くしなければいけない,そういうルールがあると,苦しんでいた方がいました.自分は白髪が多くても,黒く染めたい方を黒くしてあげてもいいと思いますが,閉鎖的な空間では,理屈はなかなか通じないですね.でも,その方の話を聴いて,周りはみんな,それは変ですねって言っていました.お客様で,白髪交じりで元気で綺麗で調子良く美容室をやっている方もいらっしゃいます.白髪染めをやりにくるお客様もちゃんといます.白髪染めがダメだとは言っていません.したい人がしたいときにすればいいのですから.

「挨拶しなかった,失礼だ」という声もたまにありますが,それを言っている方が変な場合もあったなと感じます.とても面白い現象です.私の場合はあるときから「挨拶しなかった」で非難するのは真に受けないようにしています.ちゃんと挨拶をしていたのに,後でそういう方もいて,「ちゃんとしていましたよ」と事実を伝えることもしています.また,挨拶しにくいように,ピリピリしていて,そっぽを向き続ける人もいます.だから,挨拶をしないとかしたとか,そういう形が大事なわけではないですね.

挨拶にしても,メイクにしても,因縁を付けてくる人は,それらの事が重要なのではなくて,他の何かのことでもクドクドと言う人だと思います.

昔,大学の社会心理学の講義で先生が,「日本人は同調圧力が他の国に比べて強くて,女性はさらに強いです」とデータを出して示していました.養老孟司の母親は,田舎から逃げて,都会にやってきたそうです.何でも決められてしまうその煩わしさから解放される為です.そういう人達が都会には結構いたという話は,共感するところがあります.私も振るまい方の符号化には違和感を感じていました.心の中に沸いている,ざわざわは何なのだろう,と疑問に思ってしまいます.例えば,「あの人は挨拶をしなかった」と非難している人にどうしても,同調しきれないわけです.何か理由があったのかも知れないと,思ってしまうわけです.私が思う感じのいい人は,そういう条件に左右されなくて,どっちにしても,イキイキして,元気にしていますし,臆している人をみると,優しく自ら声をかけに行っています.そのうち,相手も安心してきますから,次第に向こうから元気良く挨拶に来るようになります.歓迎してくれると分かっているからです.

何でも,やりたい人がやって,やれない,やりたくない人には,それを強いない時代で良いと感じます.本田宗一郎なんかは,記念撮影するときに,清掃員がいなくて激怒したそうです.「お前らだけで開発したのか!周りの人達とで成し遂げたのではないか!」という内容でです.これは,怒られた人達も,あとから嬉しくなる怒られ方だと思います.メイクをしない事を怒っている場合ではないと思います.人間味のなさに熱く怒れば,ポカポカと温くなってくると思います.