とある女子学生

性別関係なく,立派な方は立派である.しかし,女性を尊敬する場合が多い.何かで読んだ記事で,世界中回ってみると,女性の方が笑っている場合が多いという.

その人がそういう目で見る人だからという事もあり得ますが,本当にそうかも知れません.そして,なんとなく,女性は一人でも丈夫そうですが,男性は一人だと弱っていくような気もします.多田富雄の言い方で言えば,女性をいじった物が男性だそうです.ベースが女性だというのですね.また,科学的に性別を判定するのは,とても難しいらしいです.これという決め手がないのです.

人は年齢関係無く,色々な事があります.
また,他人から見たら,なんてことない事,贅沢な悩みだったとしても,本人にとっては,壮絶な事もあります.また殆どの人も,それを聞いて壮絶に思う事もあります.どちらにしても,その本人にとっては大変な事はあります.境遇が違う事により,自分の気持ちを誰にも分かってもらえない事も多いですし,うっかりそれを明かすと,忠告や,攻撃をもらう事もあります.「あの人を見てみなさい」とか「私なんかこんな目に」とか.

理路整然とした,きちんとした事を書いたり,話したりしなければいけないという訓練を受けてしまう事もあります.確かに,形式の場面では,なるべくそうした方が安全な気がします.しかし,仲間とか同士とか,家族は,あまりそうで無い方が良い気がします.とても大事なところは,ムキになる事とか,ひどい落ち込みをする事とか,支離滅裂に話してしまう事だと思います.河合隼雄さんがそれをおっしゃっていて,そうだなと自分の体験からも納得したのです.ですから,私は,大事な人のそれを出来るだけ大事にしたいと思うようになりました.私はそれを表してくれた方の事を人間的に好きになる事も気がつきました.私はそういうのが全然変には思わないです.それが大事なんだと思っています.私もそうでしたが,みんなも,うっかり表してしまって,その事に恥の意識を感じるようにされてしまった経験があります.

祖母が亡くなって,気がついたことがあります.祖母は,私の状態には関係なく受け入れた唯一の方でした.そういう人がいなくなったと感じてきました.その次に感じてきたのは,「そうか,自分がそういう事が出来る人になっていく番なのか」と,いう事でした.出来る出来ない出はなくて,そうなりたいと感じてくるのです.私は別に人間出来ているわけではないです.お客様や取引先,社内の人間も良く知っています.「良い人ですね」なんて社内の方や,周りの人に言えば,すぐに顔をしかめるでしょう.私も彼らの事をそういう人がいましたら,同じようにしかめますから.補足すると,好きとか嫌いとか,そういうものではないのです.そうすれば,その存在を失わなくて済むと感じているのだと思います.

若い頃に,祖母に何を話しても,黙ってずっと聞きました.最後に,ちょっと言うのですが,それがとても面白かったです.忠告や説教はありませんでした.その事の凄さを知ったのは,中年になってからです.大学を投げ出してしまい,どこに行ってもいたい目に合うし,みんな冷たいし,夢も希望もなく体調もボロボロの中,ぐったりして,「死にたい」とだけ,祖母につぶやいたとき.なんとも言えない,早すぎず,遅すぎずのタイミングに「人が死にたい,死にたい,いうのと,,,,ヒエやアワをうまいうまい言うのは嘘や,とおばさんが言うたねぇ・・・」とだけ言いました.言い方も,とても心地よかったです.そのときに,心の底から笑えました.あれは何なのか分かりません.それで現状がどうこうなったわけではないのです.その面白さは,今も消えていません.

数年前に,とある女子学生と話をしたことがあります.意識がハッキリしていて,元気で明るくて,人なつっこい方でした.どんな勉強をされているのか,聞いたら色々面白かったので話が弾んで,話の流れでとある先生の話をしたら,急に顔色を変えて,涙ぐみました.偶然ですが,その先生からはとてもお世話になった方だったのです.ものすごい勢いで,色々話してくれました.また,その方の学年からは,突然何かの事情により,望みの勉強が出来なくなったと言う事も話してくれました.ずっと後になって別の知り合いから,分かったのですが,その方は理不尽にあって,嫌な思いをしていたようです.ここからが言いたいことで,私はあの女子学生の年齢のとき,形は違いますが,大人事情のようなもので,嫌な目に合いました.当時私は,そのせいにして,腐ったのです.しかし,その女子学生は,こうでした.「もう,あそこにいる意味が無いので,留学先を探しているところです」です.私はその方をすぐ尊敬しました.私とは全然違います.あの方の年齢のとき,私は外部の要因のせいにして,腐っていましたが,あの方は,外部的要因のせいにしていません.当たり前なのでしょうけど,私は到底自分の力では出来ませんでした.それに気がついたのは,その後,色んな目に合いつつ,色んな人のお節介のお陰でやっとだったのです.

女性とも,男性とも話をして,昔の自分みたいな男はいますので,男には多いのかなと感じます.

女性は,すぱっと,次に行くのですね!かっこいい!

性別より,母性とか父性の方が,しっくり来るかも知れません.

色々な特性を分離していって,それぞれに単一的にしてしまうと,どの特性も上手く行かなくなるような気がします.色々な特性があって,それが混ざると,最初は上手く行かなかったり,攻撃したり,されたり,バカにされた気になったり,あるとは思うのですが,なんとかいられると,実はそれぞれ誤解していることがあって,気がついてみたら,色々なのがいた方が,健康的だったと言う事があるような気がします.

ずっと昔,シクロデキストリンをで色々作っていた研究者から,たまたまジョーセフキャンベルを教えてもらいました.あれから,あの内容が腑に落ち続けています.あの構造の体験を何度も繰り返します.数年前から,色々なビジネス書で取り上げられる機会が増えているようで,絶版の本も再版されたりと,周りでも知っている人がものすごい勢いで増えたなと感じます.河合隼雄さんの話も,キャンベルさんの内容をさらにわかりやすくしてくれます.他者に対しても,自分の中にも多様な性の共存が必要な時代なのだと感じます.それだけではなく,組織も人を離れた自然も,同様にです.サイエンスもです.

シクロデキストリンは,違うものを混ぜて共存させる事も出来るのだとか.2週間前ぐらいに,包接を研究している教授から,簡単にシクロデキストリンの包接機能の話を,熱力学の観点からわかりやすく教えてもらいました.シクロデキストリンの穴に溶媒分子で満たされており,その分子より大きいものが来たら,すっぽりとはめてしまう.それは,ギブズエネルギー変化が負になると解釈できる.溶媒分子が無秩序に放たれ,エントロピーが増大して,ギブズエネルギー変化量が負になるから,起こりうる現象なのだ.

⊿G=⊿H−T⊿S (等温等圧過程)
Gはギブズエネルギー Hはエンタルピー Sはエントロピー
バラバラになって行くと言うことは,⊿Sが大きくなるという事.

シクロデキストリンを検索すると,形が環になっているのが分かる.
これは,教授の話によると食べてない人はおそらくいないとの事です.

弊社の製品は,元々はシクロデキストリンの研究から出来たものです.今はシクロデキストリンに変わり,高分子シルクが使われています.

キャンベルは,ラテン語での宗教という元々の言葉の意味は,再び結びつけるという,意味だそうです.彼はトリックスターを気取り,宗教者は先の述べた意味での宗教的には生きられないと,昔の人の言葉を紹介します.しかし,大きな円を描いて,再び結びつけられるという体験は,神秘的なことです.そういう事は人生の中に何度もあります.

ちなみに 運動という現象は 全部トーラス上での話に置き換えられるのだとか.

ドーナツとか,環とか,そういうの多いです.これからの話も.