栄養と愛情

子どもの頃、NHKスペシャルで、「驚異の小宇宙 人体II 脳と心 第4集 人はなぜ愛するか~感情~」という放送がありました。その中で里子のエピソードがありました。里子は、実の親と離れる事になり、施設からも離れることになり、2回離される経験をしていていました。その子は、里親に執拗にまとわりついたり、本来の年齢より幼い行動を何度も取ります。しかし、里親がそれらを、なんとか受け入れて行くと、その子はだんだん落ち着いてきて、年相応の振る舞いをするようになりました。里親は、戦争です、かわいいとか、そういう感情ではなくて、もう必死です、というような事を言っていました。そして、なんとかその状態を乗り越えて、やっと落ち着いてくると、不思議に、私にはこの子しかいないという感情が沸いてくると言っていました。お互いが本当の親子になりました。

人は栄養と愛情でしか、成長しないのかも知れません。河合隼雄さんの本だったと思うのですが、退行現象と成長があって、愛情が満たされると、退行しなくなって、勝手に成長に向かってしまうというのが紹介されていたような気がします。甘えさせることと、甘やかすこととは全然違うことで、大事なのは甘えさせることだと。

愛情を真面目に考えたときがありまして、これは厄介だと感じました。愛情も、本物過ぎて、金銭ではどうすることも出来ないのです。しかし、必要な事の一つだと思います。それが不足したり、抑圧をすると、どうしても捻くれたり、退行してしまいます。どうすれば、自分に愛情を満たしていけるかと考えても、方法論はないわけです。しかし、自分は一番求めているものは愛情であり、それを満たしたいという気持ちがあるのだと、表面意識で認めてしまうと、なんとなく心が暴れにくくなった気がします。そして、感じたのは、中世では性の抑圧が強かったですが、今はそういう事は馬鹿馬鹿しくなっていて、今はヒステリーなんていう病気はしないと言われています。昨今の世間は性についての抑圧は卒業していたけど、愛情についての抑圧が強い時代だったのかも知れません。ですから、性の話題よりも、愛情についての話題の方がずっと、話がしにくいわけです。感情を激したり、冷笑的になったり、する場合が多い気がします。なんとなく、愛情なんて口に出すのもみっともないとか、気色悪いとか、ダサいわけです。

愛情を求めて、恥をかかされたり、拒絶されたりした経験を持つ人はいるそうですし、そして、性よりもずっと欲求が強い分、抑圧も強烈になる事が多いのだと感じます。こちらが色々主張すると、冷笑されたり、馬鹿にされる事が多くて、何でだろうと考えていた事がありました。ひょっとしたら自分は、他人から見たら、不気味であるとか、気持ち悪い人間なんじゃないかと思いました。年相応の立派な人間になるには、テクニックでそうしても、意味が無いと感じました。本当に成長してくれるには、無意識が信用しなければいけないわけです。小さい子供なら、甘えてきても、まだ受け入れてあげられるでしょうが、おっさんなんかが、退行したら気持ち悪くてしょうが無いわけですね。自分にしか与えられてない機会で、愛情をどうして良いか分からないが、表現をしていくしか無いなと、感じたことがあります。裏目に出る事も沢山あるのですが、それから、ちょっとずつ、何かマシになった気がします。

プロ野球選手だった落合さんの35歳の写真を見たことがあります。その年齢では、私より年下ですが、貫禄があって立派な顔です。あの顔こそが、年相応の顔なのだと私は思っています。

現実に憧れる方達を見てきて、甘えや愛情が満たされると、立派でかっこいい人間になるのだなと、感じています。
甘えと愛情が満たされていないと、心の手のつけられない所を作ってしまう気がします。しかし、自覚をしてしまうと、自分がなんとかやってくれるものだとも感じています。
本当に望んでいる事の抑圧から、表面意識に持ってくるという事は、相当の死ぬほどの苦しみというのを味わわなければいけないかも知れません。
それと、愛情が満たされて、不幸という感情を味わうのは不可能な気がします。

希望を失わないで、関わり続ける。絶対に見捨てない。手を出さない、見守り続ける。出来るだけ何もしない。
それらは、手を出したり、口を出したりするよりずっとエネルギーがいる事です。

私の好きな先生のエピソードで、研究室に入ったときの教授は、易しい課題は絶対に許してくれなかったそうです。無理ではないかというような課題で良しと言われ、その研究に取り組むのですが、上手く行きません。すると、その教授は何をしてくれるかというと、一緒に悩んでくれたといいます。ただ、ずっとそこにいてくれて、一緒に考えてくれるだけです。そうすると、人は勝手に育ちます。ビーイング、そこにいる、見てくれていると言う事です。

河合隼雄さんの友人の医師の話で、死期の近い患者から絶大な人気のある看護師の話があります。その医師も、誰も、何故その看護師が死期の近い患者から人気があるのかさっぱり分からないと言います。とある死期の近い患者が医師に、特別に教えてあげると、教えてくれたそうです。その看護師さんは、体も心も、この部屋に入ってくると言います。見舞いに来る人とかは、励ましたり、色々するのだけど、心がここにいないといいます。そして、死期が近いと、心が入ってくる人がものすごく嬉しいのだと言います。実は、私の友人もそうでした。最初厳しくて嫌がっていた看護師さんを、途中から大好きになっていました。その看護師さんが回ってきて、見えなくても、足音とか、隣のカーテンを開けるだけで、顔が明るくなっていました。「あの人は人望があるらしいよ」とか、嬉しそうに言いました。その友人が亡くなってから、看護師さんと話をする機会があったのですが、話をして納得しました。「最初嫌っていたんだけど、途中からすごく好きになっていましたよ」というと、「厳しい事を言ったかも知れないですが、少しでも良くなって欲しかったから」と心が本気でした。

死というのは、本当を色々教えてくれる気がします。私だけでは無いと思うのですが、死んだ人の話を、生きているときは聞かなかったのに、死んでから色々あって、大事にするようになった事があります。生きていたときに、聞いてあげれば良かったと思うことが沢山ありますよ。色々な事が順調すぎて、子どもなんかに、条件を求めすぎている親に会うときがあります。こんなエピソードを紹介すると、真っ青になって、今日子どもに謝る!と言った方もいました。本当はそうでは無いのだと思いますが、順調っぽいときは、大事な事を疎かにして、イミテーションを求めすぎてしまうことがあるかも知れませんね。折角、家族に恵まれた人生なんだったら、仲良く暮らしてほしいものです。家族が無いと、そう思います。例えば、5歳は一度しかありませんし。あと、子どものときというのは、幸せという感情を、一番味わわせてあげられやすい時代なんだとか。